同窓生掲示板で、全世代縦断の旅第二シリーズをやったら、またまた最年少の67期の欄まできてしまった。今回のシリーズは、養秀会館の敷地にハブが現れた珍事をきっかけにして、現在構想されている「養秀植物園」を、むしろ東側にも拡大して、200m先の守礼門近くまでを対象に、①ハブ駆除、②森林公園創設、③一中健児の塔を含む戦跡地として整備する、という構想である。③の一中健児の塔については、いま20会の先輩たちが、懸命に健児の像を企画しているが、これと並行して、小生たち「最後の一中生」有志によって、養秀会館の北の斜面(玉陵の南)に残存する鉄血勤皇隊第三小隊壕と武器庫、教導兵たちの控え室跡、第五砲兵司令部衛兵所跡(天界寺南、テンカイジマーチュウの下、多門墓(タアジョウ墓跡)までを、「県立一中鉄血勤皇隊奮戦と地(案)」として、顕在化し、「首里城を平和のシンボル、勤皇隊の地を戦争のシンボル」として、戦後世代と観光客にも見てもらう構想である。首里城地下に放置されている「第32軍司令部壕を整備して・・・」という意見もあるが、国としては、太平洋戦の恥辱(一部の指導者失策)ともいえる沖縄戦を浮き彫りにする地下壕の再現は、考えようとはしないだろう。数キロにも及ぶ地下壕を再現する大事業が完成するまで、我々最後の一中生は生存していないだろうから、せめて、300名の健児たちが奮戦した斜面だけでも、整備して、歴史の残したい。